
「聳える」という単語を久しぶりに使いましたが、単体で見ると少し違和感があるのは僕だけでしょうか。
仕事から帰ると、自転車をこの壁に立てかけて、デッキに座りながら一服するのが最近の習慣になりつつあります。一人で住むには広すぎて、いまだに落ち着かない我が家ですが、元から貧乏性なのか狭い空間にこじんまりとするのが好きな性格のせいもあって、一部丸々がらんとしています。
なぜこの部屋を選んだのか、説明するとあと30文字ほど余分に書かなければならなくなるので割愛します。

ガジュマルの樹のことを知ったのは、たしかドリカムの歌だったような気がする。ガジュマルをバックに写真を撮る、見たいな内容の。
お洒落なメロディの曲だったから、その木もさぞかし素敵なんだろう、と子供だった僕は思った。沖縄では、キジムナーという妖精が棲むと言われるその木の写真を見たとき、異様な風景に背筋が寒くなった。
これは、人間の骨のようだ。
うねっている幹は、がじゅまる自体の力でその形を維持することはできないらしい。他の樹に絡まり、巻きつくことで頭を上へと伸ばし、成長していく。巻きつかれた木のほうは、そのうち日が当たらなくなり、枯れてしまい、ガジュマルだけが後に残る。
そんな、中心をぽっかりと開けたガジュマルの樹が並ぶ亜熱帯の様子は、何かの墓場のように思えてならなかった。自然の摂理といわれればそれまでの話なのだが、自分がガジュマルの樹に巻きつかれる樹になったことを想像してしまい、空恐ろしくなってしまったのだ。
なにかに頼りきり、相手のことを枯らし、死に至らしめる。
基本的に性善説を信じている僕でも、なかにはそんな悪い人間が居ることを知っている。自然の摂理とはとても呼べない、ガジュマルのようにねじれ節くれだった醜い争いにだけは、巻き込まれたくないものだと思う。
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