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こだわりと好き嫌い

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 食べ物はほぼ好き嫌いなくなんでも食べられるほうだと自負している自分でも、いくつか苦手なものがある。
 無意味に赤い紅しょうがは味がどうこうではなく心理的な忌避感が先立つので別としても、ブロッコリとカリフラワーはどうしても食べられなかった。シチューで煮込みグズグズに崩れたものなら大丈夫なのだが、茹でたてのワサっとしたものは口に入れた瞬間「今、俺は樹を食っている」と感じてしまう。そして同時に「モリハウツクシイ」と片言日本語で喋るCWニコルが脳内をよぎるのだ。

 
 話は変わって今度は「こだわり」について書こう。
 こだわり、とはなにか?現代では何かにこだわっている人、と表現するとき、それはいい意味で用いられることが多いように感じる。いろいろ試した結果、ひとつのものに落ち着いた=いろいろ経験している、といったイメージから来るものだろうか。
 もっとも、こだわりは物だけに限らず行動や価値観にも使われる言葉ではあるものの、ある程度の経験に基づいた結論という意味では似たようなことである。

 ところが一方、価値観や趣味、嗜好は経験とともに変化する存在でもある。
 子供の頃は苦手だった魚が年を追うごとに好きになってくるような、嗜好の変化もそのひとつだ。

 話を元に戻すが、ということは食わず嫌いはこの場合捨て置くとしても、以前一度食べて嫌いだと感じたものも、今食べてみたらおいしいと思えるかもしれない。
 ごく最近茹でたブロッコリを食べる機会があった。普段なら箸もつけずに残してしまうのだが、もしかしたらと口へ運んだ。

 旨い。
 なぜこんなおいしいものが嫌いだったのだろうと思えるほど美味だった。それと同時に以前懇意にしていた古本屋の親父さんの言葉が蘇った。
 「本に良いや悪いはないんだよ。本はすべていいものだ。ただ、お前にとって出会った時期が良かったか悪かったか。ただそれだけのことなんだ」

 親父さんはこうも言った。
 「読んで、この本はどうも自分の好みではないな、と感じたとする。そのときは、作者がその本を書いた年齢になってからまた読んでみるといい。きっと違う感想を持つだろう」

 物の良し悪しを決める感覚など千差万別なように、好き嫌いなど年月とともに容易に変化するものなのだろう。しかし、最初に感じた印象のみで決め付けて、本当は素晴らしく感動できる、または楽しめるものを自分が得損なっているとしたら? そう考えると好き嫌いなどくだらない枷としか思えなくなってしまうのが不思議なものだ。


 再度話を「こだわり」に戻すとしよう。
 

 大辞林 第三版の解説では「こだわる」はこうなっている。

 

心が何かにとらわれて,自由に考えることができなくなる。気にしなくてもいいようなことを気にする。拘泥する。 「金に-・る人」 「済んだことにいつまでも-・るな」
普通は軽視されがちなことにまで好みを主張する。 「ビールの銘柄に-・る」
物事がとどこおる。障る。 「脇差の鍔(つば)が横つ腹へ-・つていてえのだ/滑稽本・膝栗毛 6
他人からの働きかけをこばむ。なんくせをつける。 「達ておいとまを願ひ給へ共,郡司師高-・つて埒明けず/浄瑠璃・娥哥がるた」

 読むと、こだわりなど持つほど自由がなくなるように思えてきてしまう。
とても良いように解釈するなら「こだわり」とは、実はほかにもいろいろ興味はあるし、やってみたいのだけれど、老い先を鑑みるにこれ以上いろいろやってみることはできないからひとつに絞り込んでいます、といったところだろうか。

 実際、ある程度の歳を重ねると、新たに何かを始めることはとても億劫になる。そこを乗り越えてなにかやってみよう、と思うところまでは行くとしても、たいていの興味を持ったことは一度手をつけている。残ったものは経済的に、あるいは時間的に実行に移せないものばかりになってしまう。
 だから詭弁として「こだわって」やっています、と言う事になってしまう場合がほとんどなのではないか。そんな状態に今まさに陥っている自分が考えるに、一度やって「これは駄目だ」と捨ててしまったものの中にも、今、再度挑戦してみるべきものが隠されているのかもしれない。

 「こだわり」とはそれをオブラートに包んでしまう便利な方便になっていやしないか。
 自分には向いていないから、のひと言で片付けていやしないか。

 そう自問自答する必要に迫られている気がしてならないのだ。
 そこに何かの打開策が隠されているように思える。






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by Telomerettaggg | 2014-11-25 04:41 | SIGMA 30mmF2.8DN