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目の中の男

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私のまぶたの中には人が住んでいる。
そもそも、それが人なのか、生きているのかすら定かではない。飛蚊症にしては視界の隅をしきりと移動し、私に向かって何かを懸命に訴えているようにも思える。
はじめはそれが何なのかさえよくわからなかった。
街を歩いているとき、部屋でテレビを見ているとき、時折ちらりと何か黒い影がよぎるのを感じたのがきっかけだった。気のせいだと思ったし、ましてやそれが自分の目の中にいるなどとは考えもしなかった。
しかし、人の形をしたそれは、こちらが気を許した隙にふっと現れては、またすぐ消えてしまう。目薬を点しても治らない。眼球に傷がついたのでは、と医者にもかかったが、ほんの少し、水晶体が変形しているようですが、問題はありません、と冷静に告げられただけだった。
意を決して精神科の扉を叩こうかとも考えたのだが、やはり思いとどまった。目の中に人がいるように感じる、と相談してくる患者に対して下す判断は、どう好意的に判断しても、精神異常者だろう。
不意に現れるとはいえ、視界の、ほんの隅のほうに小さく出現するだけで、実生活に何の問題もない。そう自分を納得させて、普段通りの暮らしを続けた。
まぶたの中の黒服(と便宜的に呼ぶことにした)が居座るようになって数ヶ月経ち、こいつがどんなときに出現するのか、ある程度判るようになった。
一つ。夜間より日中、室内より屋外の方が出現率が圧倒的に高い。
一つ。右目と左目、どちらか片方にしか現れないし、私が向きを変えると、左右どちらかに黒服も移動する。
一つ。室内にいるとき出てくるのは、私がテレビや写真など、何かしらの映像を見ている時に限られる。
さて、彼は一体なにがしたいのだろうか。状況から考えるに、何かを訴えようとしているのは判る。判りたくはないし、このままこの状況を受け入れると本当に自分がおかしくなってしまったようで受け容れがたいのだが、事実はそう示唆しているように思えてならないのだから仕方がない。

 答えはある日唐突に訪れた。
 その日私はぶらりと旅に出かけた。視界の隅の黒服は、その日いつもより出現率が高いようだったが、たいして気にも留めていなかった。
 一人旅の場合、どこに向かうか、どこに足を留めるか、その場任せで決めることが多い。そのときも、全く何も考えず、大都市ながらそこには一度も行った事がなかったな、と思いつき、きまぐれで列車から降りた。
 改札を出ると、まだ16時をまわった頃なのに、地元球団を応援するグッズなどが並び、近くにはビールを売る呼び子の声が聞こえてくる。どうやら、すぐそばに球場があり、今日は試合があるらしい。観戦する気もなかった私は、駅前から出ている路面電車に乗ってみようか、などと考えていた。
 その時、視界の隅に黒服が現れた。注視すると消えてしまうので視線はまっすぐ向けたまま、ちらちらと映るそれを確認する。どうも、いつもと様子が変だ、と感じたのは、黒服の手がおいでおいで、と招いているように見えたからだ。普段の彼は、じっと視界の隅にたたずむだけで、動くようなことはなかった。
 私は我慢できなくなり、彼のいる左目の端へ視線を移動させてしまう。当然、黒服はいなくなる。ひょっとしたら、と思い、体の向きを反対にしてみる。すると、右目の端にやはり手招きしながら黒服が現れた。
 これはもう、彼の手招きする方向へ行ってみるしかない、と誘導されるがままに歩くことにした。横断歩道を渡り、黒服は右へ左へ、ふらふらと出現しては消えることを繰り返す。
 黒服をじっと見てはいけないし、路上の様子も確認しなくてはならない。何度も路地を曲がり、進むうちに、私は自分がどこをどう歩いているのか、全く見当がつかなくなってしまった。そしてふいに、黒服の姿は私の両のまぶたから消えていた。
 今いる場所が駅からそう遠く離れていないことは判った。線路を越えてはいないし、とおくのほうからは、うぉー、とどよめきが聞こえる。きっと野球の試合が始まったのだ。
 しかしここは、街の中心部にほど近いとは到底考えられないほど、ひと気がなかった。うらぶれた看板、営業しているかも定かではないネオン。ここだけは時が止まったようだ。

 背後に、誰かが立っているのを感じた。
 黒服の男だ。いやまさか。目の中にいた黒服は、あまりにも小さく、表情や体型までうかがうことは出来なかったが、目の前にいる男はずんぐりとした体型で、ご丁寧にシルクハットらしきものまで頭に乗せている。いかにも怪しそうな風体ではないか。そして私に向かって、こちらに来ませんか、とでも言うようにシルクハットを取り手招きしている。真ん中からきっちり分けた髪はべったりとつけたポマードで黒光りし、大きく歯を見せてニヤリと笑っている。
 男の背後には店の扉がある。私はそこに掲げられた店名を見て、すべてを理解した。そして、一目散にその場を離れた。

 どこをどう走ったのか、ハイヒールの脚ではこんなに走った経験があっただろうかというほどに疾駆した。気付くと、いつのまにか駅の前に出ていた。先ほどと変わらず人々の喧騒、行きかう雑踏のなかに身を置いて、私は安堵のため息をついた。
 あの、黒服の男、私には全く必要なかった。
 私には、埋めて欲しい心の隙間などないのだから。結局、街を観光することもなく列車に飛び乗った私は、ほんの少しだけ後悔することになる。黒服の男の話に耳を傾けなければいいだけなのだから、あの背後にあった店「BAR 魔の巣」に入ってみればよかったのだ。

 それ以来、視界の隅に黒服の男が現れることはない。
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by telomerettaggg | 2010-11-09 11:02 | RICOH caplio R5